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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

中村富十郎 (5代目)

『盲長屋梅加賀鳶』竹垣道玄・日陰町松蔵  『夏祭浪花鑑』釣船三婦  『青砥稿花紅彩画』日本駄右衛門  『双蝶々曲輪日記』濡髪長五郎  『於染久松色読販』鬼門の喜兵衛  『新皿屋舗月雨暈』魚屋宗五郎  『隅田川続佛』道具屋甚三  『恋飛脚大和往来・封印切』丹波屋八右衛門 『京鹿子娘道成寺』白拍子花子  『二人椀久』椀屋久兵衛 

คำที่เกี่ยวข้อง

中村富十郎 (4代目)

にする。矢車座を結成し新作の上演をおこなったりして活躍したが、関西歌舞伎の低迷の中で思うように活躍できぬまま、巡業先の広島県福山市で急死した。 ねばっこい近代的な芸風で『心中宵庚申』のお千代。『箕輪の心中』の綾衣、『少将滋幹の母』の北の方、『番町皿屋敷』のお菊などが当り役。

中村富十郎 (2代目)

三代目中村松江を襲名。以後江戸や上方の舞台に出る。天保4年(1833年)正月、大坂で二代目中村富十郎を襲名する。翌天保5年には役者として「惣巻頭大上上吉」の位に上る。天保14年(1843年)、贅沢禁止令に触れ大坂より追放されたが、その後も京や江戸の舞台で活躍した。享年70。時代物と世話物を兼ね、娘

中村富十郎 (初代)

年(1729年)春に崎彌は中村富十郎と名を改め、京都の佐野川万菊座に加わるが、この時まだ実際には舞台に立たなかったという。同年の暮、富十郎は万菊や新五郎とともに江戸に下り、享保16年正月に市村座で初舞台を踏んだ。時に13歳。同年冬、万菊と新五郎に付いて再び京に戻る。この十代の時期、踊りを大坂の振付師中村京十郎より習う。

中村富十郎

中村 富十郎(なかむら とみじゅうろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は天王寺屋。 定紋は八本矢車(はっぽん やぐるま)、替紋は杏葉杜若(ぎょうよう かきつばた)。 初 代 中村富十郎 初代芳澤あやめの三男、初代中村新五郎の養子、1719–86。 芳澤崎彌 → 初代中村富十郎 二代目 中村富十郎

中村時蔵 (5代目)

五代目 中村時蔵(ごだいめ なかむら ときぞう、1955年(昭和30年)4月26日 - )は、歌舞伎役者。屋号は萬屋。定紋は桐蝶、替紋は蔓片喰。 叔父に初代中村獅童、従兄弟に二代目中村獅童が居る。 東京都出身。早世した歌舞伎役者四代目中村時蔵の長男で、現代の歌舞伎界における立女形の1人。七代目尾上菊

中村歌六 (5代目)

平成22年(2010年)9月新橋演舞場「秀山祭九月大歌舞伎」の『伊賀越道中双六』(沼津)の雲助平作で、弟の三代目中村又五郎(当時・歌昇)と共に屋号を萬屋から播磨屋に戻した。この「沼津」は、かつて初代中村吉右衛門の呉服屋十兵衛にその父・三代目中村歌六の雲助平作という配役を行っており、それを当代の吉右衛門と歌六がつとめ、播磨屋の芸の伝承を見せた。

市川團十郎 (5代目)

文化3年、66歳で死去。辞世の句は「木枯らしに 雨もつ雪の 行衛かな」。また孫でこの年15歳になったばかりの七代目團十郎の将来を祝福して、「顔見世や 三升樽の 江戸のつや」と詠んだ。墓所は青山墓地。 細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にあ

市川鰕十郎 (5代目)

五代目 市川鰕十郎 五代目 市川 鰕十郎(いちかわ えびじゅうろう、1852年(嘉永5年)- 1903年(明治36年)10月7日)は上方の歌舞伎役者。屋号は播磨屋。俳名に新升。本名は久保田 蝦十郎(くぼた えびじゅうろう)。 父は二代目市川鰕十郎といわれる。

澤村四郎五郎 (5代目)

く仕上げてあり、俳優たちも優美だったが、活劇場面のバカバカしさがなく、爆発的人気にはならなかった。しかし熱烈なファンはここにもおり、「松之助党」とか「四郎五郎党」などと名乗って、映画雑誌の読者欄では威勢の良い投書合戦が繰り広げられた。面長ですらりとした立ち姿が美しく、女性ファンからの人気が高かったという。

中村吉十郎 (初代)

『乞食と大名』:監督小林彌六、1925年9月30日公開 - 最上出羽守 『狂へる漂人』:監督小林彌六、1925年10月6日公開 - 塩焼人夫・喜作 『黒頭巾十六騎』(『黒巾十六騎』):監督小林彌六、1925年10月23日公開 - 清水頼母(主演) 『炬火を翳して』:監督辻吉郎、1925年10月23日公開 - 主演

澤村宗十郎 (2代目)

寛延2年(1749年)、初代澤村宗十郎の養子となり二代目澤村宗十郎を襲名、その後実悪に転じ宝暦13年(1763年)の評判記には実悪部で上上吉となって評価を上げる。明和のころには再び立役に転じ、明和6年(1769年)の評判記には上上吉となる。翌年には最高位惣巻軸まで昇りつめたが、京都で『双蝶々曲輪日記』の南与兵衛など演じたのが最後の舞台となった。享年58。

澤村宗十郎 (3代目)

出て評判となった。こうして三都にわたって多彩な活躍をしたが、晩年は体調を崩し台詞を忘れるなどの障害に悩まされた。享年49。墓所は田島山十一ヶ寺の受用院、戒名は遊心院傾誉西天。辞世の句は「あぢきなや 浮世の人に 別れ霜」。 当り役は『伽羅先代萩』の足利頼兼、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助など。体格は

澤村宗十郎 (9代目)

平成7年(1995年) 紫綬褒章 平成12年(2000年)12月 歌舞伎座『若木仇名草』(蘭蝶)の蘭蝶をつとめ、共演した七代目中村芝雀、五代目坂東八十助とともに切口上も行い、翌月の十代目坂東三津五郎の襲名を祝った。これが伝説の最後の舞台となった。 平成13年(2001年)1月12日 心不全のため、大阪赤十字病院で死去。墓所は多磨霊園(14-1-9)

澤村宗十郎 (4代目)

澤村宗十郎(よだいめ さわむら そうじゅうろう、天明4年〈1784年〉 - 文化9年12月8日〈1813年1月10日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。俳名は遮莫・訥子、屋号紀伊国屋。紋は丸にいの字。 三代目澤村宗十郎の息子で母は四代目松本幸四郎の娘。弟に二代目澤村田之助がいる。寛政3年(1791年)正月、澤

芳村伊十郎 (7代目)

1956年 人間国宝 1957年 日本芸術院賞 映画監督の土屋啓之助は実弟。芸よく、顔良く、女性によくモテた。三味線方の杵屋勝東治(俳優の若山富三郎と勝新太郎兄弟の父親)、囃子方の初代藤舎呂船とともに花柳界では三羽烏として有名だった。 『七世芳村伊十郎長唄大全集』 1997年、日本コロムビア(1964年にレコード発売されたものをCD化)

澤村宗十郎 (7代目)

先、姫路の巡業先で『仮名手本忠臣蔵』の勘平を演じている最中に倒れた。その最後は、揚幕の中で「財布。財布。」と六段目の勘平の使う小道具の財布のことを口走りながら逝くという壮絶なものであった。 鷹揚な性格で、被るべき鬼女の面を忘れて舞台に立ってしまい、止むなくそれらしい顔をしてごまかしたというエピソードが伝わっている。

澤村藤十郎 (2代目)

とうじゅうろう、1943年(昭和18年)10月12日 - )は、歌舞伎役者。本名は澤村豪一(さわむら ごういち)。屋号は紀伊國屋。定紋は笹竜胆(ささりんどう)、替紋は波に千鳥。歌舞伎名跡「澤村藤十郎」の当代。最終学歴は暁星高中退。 東京都出身。父は八代目澤村宗十郎、兄は九代目 澤村宗十郎であり、いとこには六代目

中村宗十郎

やはり九代目市川團十郎とはそりが合わずにその問題児ぶりを露呈した。『夜討曽我』初演時には團十郎に面と向かって下手糞だ、菊五郎の方が余程上手いと罵倒して喧嘩となり、仲裁に入った左團次にまで下手糞と罵って揉めたなどというのは序の口。團十郎の活歴志向が気に食わないからといって、彼がつとめる五郎が烏帽子に鎧

中村歌右衛門 (5代目)

沓手鳥孤城落月』の淀君などがあり、これら女形の型が今日に至るまで手本となっている。 また立役では、前述の五右衛門のほか、若き日に明治天皇の天覧歌舞伎で勤めた『勧進帳』の義経、『寿曽我対面』の工藤、『暫』のウケ、『菅原伝授手